闇人(クロト)は急いでいた。
三が日を過ぎても、由緒正しい神社近くの麻黄駅は人波が絶えない。晴着やブーツの膝に何度もぶつかりそうになりな
がら、クロトは北口に辿り着いた。いつもは車で行き来する道。一人きりで電車に乗るのは初めてだ。北口はエスカレータ
ーもエレベーターも設置されておらず、クロトの前には永遠に続くかと思われる段数の階段。クロトは暫し眼下に広がる光
景に立ち竦んだ。大人にとっては僅かでしかないだろう段差も、クロトにとっては風呂場の椅子程の高さだ。一段降りる度
に、足膝から全身に震えが走るだろう。大人にとってはありがたいであろう手摺りも、手の届かないクロトには全く関係の
ないものだ。クロトは、エスカレーターが設置できないのならばせめて階段の端1mを滑り台にすればいいのに、と思った。
しかしいくら文句を垂れたところで、麻黄駅のもう一つの出口である南口はぐるりと回った反対側。クロトに迷っている暇
はなかった。行かなければならないのだ。今すぐに。
あと少しで地階、という段でクロトの膝はガクリと抜けた。人並み外れて動体視力の良いクロトの目には景色がスローモ
ーションで動いていくのが見え、咄嗟に腕を顔の前で交差し身体を丸めた。ゴロゴロと下まで転がった身体は派手な転び方
の割にダメージは少なかったが、それでもハーフ丈のジーンズから覗く両膝が擦り剥け血を流していた。紺色の制服を着た
駅員が駆けつけて屈み、「僕、大丈夫かい?」とクロトを立たせた。クロトは痛みと心細さに溢れてくる涙を豹柄のファー
コートの袖でゴシゴシと拭い、「なんともねぇ。」と努めて平常の声を出した。
「君一人かい?お父さんやお母さんは?はぐれちゃったのかな?」
「迷子じゃねぇ。それより、最京大前駅へはどう行けばいい?」
はっきりと言葉を紡ぐクロトに駅員は驚いたようだったが、「次に来る1番線の下佐端行きの電車で七つ目の駅だよ。」と
丁寧に教えてくれた。ついでに要らないと言うのに無理矢理ホームにまでついて来られて、「偉いね、お遣い?」と笑いな
がら糞甘臭い飴玉まで寄越されて、クロトは辟易した。
最京大前駅まで着けば、クロトにとっては庭のようなものだ。中央南口が商店街へ続く出口で、その商店街を突っ切った先
がクロトの住むマンションだ。クロトは今度はエレベーターで易々と地上階へ上ると、改札を抜け商店街へ走り出した。
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買い物を終え、ソンソンから出たクリフォードの足に小さな塊がドン、とぶつかった。
耳まで覆うニット帽に豹柄のファーコート、ハーフ丈のブラックジーンズから伸びる足からは血が出ていて、白いソックス
まで赤黒く染まっていた。小さな塊は尻餅をつき、コートの袖でゴシゴシと目元を擦ると、「糞どこ見てやがんだ!」と甲高
い声で啖呵を切ってきた。こんなよちよち歩きの赤ん坊が他人にぶつかって最初に言うセリフがそれか、親の顔が見てみたい
もんだ、とクリフォードは小さな塊をじっと眺めた。染めているのか地毛なのか、ニットの裾から出た髪はハニーブロンド。
目元を擦り終え、パンパンとジーンズを払うと、小さな塊がじぃ、とガンを垂れてきた。髪はブロンドなのに、瞳は黒か、じ
ゃあ髪は脱色か、クリフォードは思考を巡らせて、「テメェ、迷子か?」と小さな塊に問うた。考えなければならないことは
別にある。しかし、それを考えたくは無かった。
何を思って己の恋人が、別れを切り出してきたのか。確かに始まりはアバンチュールとも呼べない、賭事の延長だったかも
しれない。けれど、想いが募ってからは態度でも言葉でも、存分に表現してきた筈だ。ヒル魔も同じであると、そう思ってい
た。ヒル魔の両眼にはクリフォードしか映っていなかったし、クリフォードを欲して何度も腕を伸ばしてきた。けれど会う度
ヒル魔の瞳は悲しみに揺れていった。何か隠し事をしているだろうことは分かっていた。他に好きな奴でもできたか、頭の隅
にその考えが掠ったが、ヒル魔の視線も声も身体も、全てクリフォードを求めて止まなかった。何故。いくら考えても堂々巡
りで、何度でも戻るのだ。あの、久しぶりにヒル魔を抱きしめた途端「別れようぜ。」と切り出された胸糞悪さに。
「迷子じゃねぇ。」
小さな塊はそう答えた。
「ふーん。」
とりあえず訊いてはみたものの、然して興味があった訳でもなかったので、クリフォードは歩き出した。ヒル魔のマンショ
ンへと。小さな塊がその小さなコンパスを必死に動かし、クリフォードを抜いて行った。ふと、自分の問いは英語であったの
に、小さな塊が返した答もまた英語であったことに気づく。そして何故か、ヒル魔の声が間近で聞こえたような気がして、小
さく首を振った。
程なくしてマンションのエントランスに辿り着くと、先程の小さな塊がインターフォンの前で必死に飛び跳ねているのが見
えた。管理人室にはカーテンが掛かっている。なるほど、帰ってきたはいいがインターフォンが押せず扉が開かないのだろう
。クリフォードはポケットから借りたヒル魔の鍵を取り出し、未だ部屋番号を押そうと格闘する小さな塊の上から鍵を差し込
んで、分厚いガラスのドアを開けた。小さな塊はクリフォードを振り返り、まるで親の敵であるかのように強く睨んだ。
エレベーターの中でも、降りてからも、小さな塊はずっとクリフォードを睨み続けていた。クリフォードにとって赤子に近
いガキの視線など痛くも痒くもなかったが、同じ部屋の前で立ち止まる段になって、流石に鬱陶しく思い始めた。
「おいガキ、テメェはテメェん家に帰れ。」
言いながらヒル魔の部屋に鍵を差し込んだクリフォードを見て、小さな塊は真っ黒な目を見開き、口を歪ませた。ドアを開
けると、クリフォードを押しのけて、小さな塊が部屋に飛び込んだ。
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鍵を回す音、次いでドアが開く音がして、視線を其方へ向けると、今ここに居るはずの無い小さな塊を見つけて、ヒル魔は
息を呑んだ。膝下が赤く染まっている。続いて今し方ソンソンまで酒とつまみを買いに行ったクリフォードが入ってくる。玄
関、廊下、開いたドアの先のリビング。小さな塊は次々に視線を巡らせると、堰を切ったかのように大声で泣き出した。ヒル
魔は凍ったように動けずにいた。泣き喚く小さな塊の後ろでクリフォードが溜息交じりにサニー、と呼ぶ声に我に返り、駆け
寄ってその小さな身体を抱き上げた。つい今まで自らが座っていたソファーにそれを下ろし、ティッシュで垂れた血と泥を拭
うと、救急箱から取り出した消毒スプレーを血だらけの膝に吹きかけた。沁みたのだろう、ジタバタと暴れるのをヒル魔は再
び抱え上げ、あやすように身体を揺する。クリフォードはその様子を見ながら、毛皮のコートを脱ぎ向かいのソファに深く腰
を下ろした。暫くすると耳を劈くような泣き声は止み、しゃくり上げる声だけが部屋に落ちた。
「お、で………俺、を……捨てるのか?妖一っ」
ヒル魔が驚きで表情を失くす様を、クリフォードは初めて目にした。
「…テメー、何言ってやがる?」
「ぅぐ…ぉれを、捨てるのか?俺を嫌いになったのか?俺よりコイツがいいのか!」
やりとりは全て日本語だったが、簡単な単語ぐらいはクリフォードも拾える。声は小さく聞き取りづらかったが、二人のや
り取りは充分に理解できた。
「頭沸いたのか?そんなワケねーだろーが。」
「だって…だって!玄関に俺の靴が無かった!俺専用のソファも、クッションも、おもちゃ箱も!全部ねーじゃねーか!!」
「それは」
「捨てたのか?俺がいない間に…俺をまもりんとこに預けてる間に、全部捨てたのかよっ!」
「捨てるわけねーだろ。」
「じゃあ隠したんだな。」
割って入った英語の声は低く、静かだった。両膝に肘を乗せ、組んだ指で口元を隠して、氷の碧眼はヒル魔を射抜いた。
「別れたい原因は、ソレか?」
「……。」
長い沈黙を破ったのは、携帯電話の着信音。ヒル魔は一度、未だ涙で濡れる腕の中の小さな塊をソファに下ろすと、テーブ
ルの上で耳障りな電子音を発するそれを手に取った。表示された名前を見て、ヒル魔は一度廊下へ出た。
クリフォードはヒル魔が廊下に出たのを確認して立ち上がり、小さな塊の前で屈んだ。氷の双眸が今度は小さな黒い瞳を射
抜く。泣いているからか、近くで見たからか、黒だと思っていた瞳は深い瑠璃色だった。
「おいチビ、テメェいつからここに住んでる?」
「俺はチビっつー名前じゃねぇ。」
「じゃあ名前は何だ?」
「テメーに名乗る名前はねぇ!テメーこそどこのどいつだ!」
「俺はクリフォード・D・ルイス。蛭魔妖一の恋人だ。お前の名は?」
クリフォードの迫力に圧されたのか、埒が明かないと思ったのか、小さな塊は肩を竦め、ついには名を明かした。
「………………クロト。クロト・ヒルマ。生まれた時からココが俺の家だ。」
聞いたクリフォードの周囲を冷気が覆う。眇められ更に威力を増した視線にも、クロトは動じず睨み返した。
「……テメーは」
「クロト、お前の母親は誰だ?」
クロトの問いを遮ってクリフォードが詰める。有無を言わせぬ様子に、クロトは張り合うのも面倒になり淡々と応えた。
「知らねー。」
「父親はヒル魔だな?」
「………テメーがもし、俺を産んだ人間を母親、その相手を父親、っつってんなら……俺を産んだのは妖一だ。だから母親
は妖一だ。相手は知らねー。」
「お前馬鹿か?ヒル魔は男」
「嘘じゃねぇ!妖一が俺を産んだ。俺は、生まれた時のこともはっきり覚えてる。それに、ちゃんと妖一の腹に、俺を産ん
だときの傷が残ってる。」
クリフォードは呆けたように、口を半分開いたまま固まった。
「…クロト、お前、今いくつだ?」
「四日前に三歳になった。」
ガチャ。会話を終えたヒル魔が扉を開けてリビングに戻ってくるのと、クリフォードが頭の中で全てのピースを組み立て終
わるのと、ほぼ同時だった。クリフォードは震える手でクロトの目深に被ったニット帽を脱がせた。視線を上下させクロトの
容姿を確認すると、クリフォードは左手で自らの額を覆った。
今までニットに隠されていた耳は上に行くにつれ緩く尖り、茶に近い濃い目のハニーブロンドは根元から毛先まで同じ色。
一見黒にしか見えない瞳は瑠璃。そしてきつく睨み上げる眉目は垂れ気味で、鼻筋はまだ小さいながらも高く通っている。
「…俺のガキ、なんだな。」
それは確認ではなく、確信だった。
驚いたのはクロトで、垂れ目を目一杯開いて目の前のクリフォードを見、そして身体を捻りソファの後ろに立つヒル魔を見
つめた。ヒル魔は唇を噛み目をきつく閉じて、そうだ、と低く呟く。クリフォードは額の手を外し立ち上がると、所在無く二
、三歩歩いた。そして真っ白な壁に言葉を投げた。
「…なんで黙ってた?」
「……。」
「俺が下ろせと言うとでも思ったか?」
「……。」
「俺が認知もせず切り捨てるとでも思ったか?」
「…違う。」
「それとも、俺がガキだけ取り上げてテメェを切り捨てるとでも思ったのか!」
「…ちげ」
「馬鹿にするのも大概にしろ!!」
クリフォードがヒル魔に向き直り、声を荒げる。空気が破れるほどの迫力に、クロトの身体が意図せず震える。
「コイツは今三歳、つまり出来たのはワールドカップん時だ。それから何回会った?何回セックスした?何が絞扼性腸閉塞
で手術だ!四年…四年間も、俺を騙して楽しかったか!!」
「…に言ってやがる。テメーもよく知ってんだろ!俺は女じゃねぇ。男が妊娠したんだぞ!」
「だからなんだ!俺とテメェのガキだろうが!」
「テメーに何がわかんだよ!!」
「分かんねぇよ!分かるわけねぇだろ!…テメェが何か隠してんのは知ってた。そんなの見てればすぐに分かる。だが妊娠
してガキ産んだって?どんな思いだったかって?んなの知るか。ネットに潜ってもそんな情報出て来やしねぇ!テメェが態と
隠したんだろうが!」
「うるせー糞!」
ヒル魔はどこからともなくバズーカを取り出し構える。しかしクリフォードは意にも介さず続けた。
「今なら分かるぜ、サニー?テメェの考えてること全部当ててやろうか?男の妊娠なんて有り得ねぇ、増して出産なんざイ
チかバチかの賭けだ。だから俺には黙っておく。もし俺に知れたら、すぐに切られるに決まっている。この関係は遊びに過ぎ
ないし、『前途有望なフットボウラー』クリフォード・D・ルイスのことだ、将来はどこぞのセレブの女と結婚、と相場は決
まっているからな。別れた後も、認知はおろか、最悪強制中絶させられるかもしれない。私生児、しかも男が産んだとなれ
ば、『前途有望なフットボウラー様』の経歴に傷がつくからな。だから俺には黙っていよう、そして俺のプロ入り前には別れ
よう。そうすれば自分はガキと二人幸せに暮らせる、めでたしめでたし、と。……反吐が出るぜ。」
「……。」
「俺の幸せをテメェが決めるな!!…テメェのその出来のワリぃ自己満足のプロットはな、クズみてぇに踏み躙ってんだよ
!俺の意思も、コイツの意思も、テメェの意思もだ!誰も幸せにならねぇ。人をそんなに不幸にして楽しいか!!」
「……る、せっ……ぅるせーんだよ……。」
構えられたバズーカが、力なく垂れ床に触れる。ヒル魔が他人の前で涙を流すのを、クロトは生まれて初めて見た。
「そんなに俺は信用無ぇかよ?」
「………糞っ……」
「……テメェが思ってるほど、『アイ・ラヴ・ユー』は軽い言葉じゃねぇ。普通に付き合ってるぐらいじゃ『リアリー・ラ
イク』止まりだ。添い遂げたいと思う相手にしか、何度も何度も、愛してるなんて言わねぇよ。」
クリフォードは歩み寄り、強張るヒル魔の体を抱き締めた。幾筋もの涙が川のように流れるヒル魔の頬を自分の肩に押し付
ける。嗚咽さえ漏らすまいと、歯を食いしばっていたヒル魔は、抱き締められ背を擦られるまま、徐々に強張りを解いていっ
た。
「…………………悪かった…」
掠れたヒル魔の謝罪は、しっかりとクロトの耳にも届いた。
「……分かればよろしい。」
教師然としたクリフォードの物言いに、ヒル魔は泣きながらケケケと笑った。クリフォードはそれに微笑むと、一度ヒル魔
の身体を離し、両手でヒル魔の頬を包んだ。黒と碧の視線が交錯する。クロトはその様子を、ソファの背に縋り付き好奇の目
で見ていた。
「…妖一、俺と結婚しろ。」
ガッタン。大きな音を立てて、辛うじてヒル魔の手に握られていたバズーカが倒れた。暫くの間呆然と、あどけない子供の
ような表情を浮かべたヒル魔は、続いて悪魔の微笑を乗せた。
「……命令形でプロポーズとはね。俺に拒否権はあるんデスか?センセ?」
「ねーよ。」
こういうとき、きっと子供は目を覆うものなのだろうが、この程度で騒いでいたらこの二人の子供は務まらないだろうと
思い、クロトは両親の熱い接吻を目に焼き付けた。
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麻黄駅前、バフォメットデパート。数日間、ヒル魔よりクロトのお守り役を任されたまもりは、共に世話をしたいと申し出
た鈴音とセナと共に、クロトを連れて初売りセールに来ていた。本当なら初日である二日に買いに来たかったところだが、最
京大学は今年もライスボウル出場、嬉しいことではあるけれども三が日は部活三昧であった。初売りセールは今日が最終日。
クロトはつまらないだろうが、
「行きてぇなら行けよ。ただしベビーカー持ってけよな。昼寝できねぇ。」
と、相変わらず幼児らしからぬ物言いでまもりの買い物を許可してくれた。
一通り目当ての物は買い終え、お茶でも飲んで家に帰ろうか、という辺りで事件は起きた。トイレから帰ったまもりを待っ
ていたのは、どうしようまも姐、と泣きそうになった鈴音だった。
「クロロンが、ちょっと目を離した隙に、今セナが探しに行ってて」
「落ち着いて鈴音ちゃん。何があったの?」
「私…私のせいなの。クロロンが寝てると思って、セナに話しちゃったの。『妖一兄、別れるつもりなのかな。なんで好き
合ってるのに、離れなくちゃいけないんだろう。こんなのおかしいよ。』って。多分クロロンをそれ聞いて、自分のことだと
思ったんだと思う。なんかベビーカーが軽いな、って思ったら、クロロンいなくなってて…」
「それならきっと向かった先はヒル魔くん家ね。…でもまだクロトくんは三歳になったばかりだから……とにかく、鈴音ち
ゃんはインフォメーションセンターで館内放送を流してもらって、そこで待ってて。ベビーカーもお願い。私は麻黄駅に行っ
てみる。何か分かったらすぐ連絡して。」
三人の必死の捜索にもかかわらずクロトは見つからなかった。打つ手を無くした三人がついにヒル魔に電話を掛け、クロト
が無事ヒル魔の家に辿り着いていたことを知るのはそれから三十分以上経ってからのことだ。
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クリフォヒル実子バージョン。終わり方中途半端ですみません。
クロトは、普通の子と比べると化物並みに成長が早いですが、ゴンさんと比べると遅いです。
ヒル魔さんの妊娠日記から書こうと思っていたのに、いつの間にか息子は三歳でした。あれ?
息子の名前悩みまくった挙句、ヒル魔一人で産んだのだから、ヒル魔家の命名法則(幽也→妖一)になんとなく則りました。
遺伝の優性を考えるとクロトの形質は黒目黒髪でしょうが、なんかもう男が妊娠って言う時点で現実離れしてるのでいいや、
って思って中間の容姿にしました。
でもヒル耳は優性だと思う!